せっかくとは?/ 学生ローン
[ 126] 副詞「せっかく」の用法
[引用サイト] http://homewww.osaka-gaidai.ac.jp/~koyano/kenkyuuseika/sekkaku.html
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長男の妻が好意を受け取らないと嘆く56歳の女性からの投書が大きな反響を呼んでいる。「嫁」たちからの反論や、「姑」からのアドバイスなどが寄せられているというのだ。この記事にイラストがついている。息子のために持ってきた品物を手にして差し出している姑と、手を振って断っている嫁とが向かい合って火花を散らしている。両者の間に「せっかく」の文字が書かれている。題して「・せっかく・の不一致」。 出来事に対して、話し手の見方やたちばによって、相反する使用法があることを捉えているのである。息子の妻は、姑の好意を断るために「せっかくですけど」を使用し、姑は、嫁の言動に承伏できず、自分の好意を押しつけるために「せっかく〜んだから」「せっかく〜のに」を使用している、とでも言えるだろう。同じ「せっかく」を使用しながら、話し手の心理や感情と、相手に対する配慮のありかたによって、相異なる使用法があることがしめされている。 ところで、「せっかく」は、2、3歳の幼児でも使用することのある副詞である。ただし、このような年齢の幼児には、「せっかく〜したのに」といった使用法はあっても、「せっかく〜だから」とか「せっかく〜だけど」といった使用法はないように思われる。一般成人のばあいには、相手に配慮して自分の心理や感情を抑制して使用することがあると考えられるが、幼児のばあいには自己中心的な心理や感情のおもむくままに使用するといった特徴が、この副詞にはあるようである。 幼児にとって、「せっかく〜だから」のようなまさめの関係づけの使用が少ない(と思われる)のは、彼らの社会性が未熟であるということもあるだろうが、彼らの周囲での使用状況が、うらめの関係づけに片寄っているために、まさめの関係づけに接触する機会が乏しいためではないだろうか。それほどまでに、うらめの関係づけによってわれわれは「せっかく」を使用していると予想される。 やがて、まさめの関係づけを学んでゆくのであるが、自分にとってのプラス思考、相手にたいする思いやりなどの気持ちの育成と関わっているようである。われわれは、どの時期から自己を抑制するような使用法を身につけるのだろうか。これはこれで興味深い研究テーマになるだろう。 「せっかく」は連用的なつきそい・あわせ文(複文)のつきそい文(従属節)に現れるモダリティ副詞の一つである。その語義と構文的な機能は、渡辺1980がすでに指摘しているように、いいおわり文(主文)に描 れている出来事が「随伴的に成立するという期待を前提として」、それを「随伴的に成立させる可能性を持」つ、つきそい文に描かれる出来事を「価値ありと認める話者の評価を表わす」ことである(小矢野1997)。 本稿は、「せっかく」が、(1)連体的なつきそい・あわせ文(「せっかくの」の形をとる規定語になるばあいは小矢野1997で扱ったのでのぞく)に使用されるばあい、(2)連用的なつきそい・あわせ文に使用されるばあい、(3)圧縮表現(注2)のばあいとを対象にして、副詞「せっかく」の構文的な機能と、使用される文脈的な、あるいは連文論的な条件、話し手の心理や対人的配慮などを観察しようとするものである。さらに、石神1982で提示された、思考の展開の解釈や、言語学研究会・構文論グループ1986や蓮沼1987でしめされた解釈についても、実例に根拠を求めてみようと思う。 小矢野1997で考察した「せっかくの」の形の規定語が名詞を規定するばあいとほぼ同様に、連体的なつきそい・あわせ文のつきそい文に「せっかく」が使用されたばあいにも、うらめの関係に読みとれるものが79.7%と、圧倒的に多かった(注4) この節で観察するタイプは、形式的には、動詞述語を「せっかく」が修飾してその全体が規定語として名詞を規定するものと、「せっかく」xxx動詞述語をもつ節を修飾して、その全体が名詞を規定するものとに大別される。さらに、このタイプにも、「せっかくの」のばあいと同じように、連語論的な観点からして、主体や対象の無機能化のむすびつきと、主体や対象の消滅のむすびつきが観察された。 つぎの例のように、ガ格名詞(およびそれに相当する名詞)が表す物事(勉学の機会、友達の輪)や事物(胸の谷間)が、「閉ざされる」「しぼむ」「消える」などの、消滅という変化を捉えたものを「主体の消滅のむすびつき」とする。消滅の主体は、消滅することが惜しいようなものであり、できることなら存続させたいと話し手や動作主によって捉えられているものである。このような心理や感情が「せっかく」の使用に込められているのである。そして、存続が実現すれば、話し手や動作主にとっては、勉学の実現・継続、交友関係の継続、自信のもてるボディーライン xxxの維持が可能になるという、話し手や動作主にとって望ましい出来事が期待できるのである。その期待が、消滅のむすびつきをなす連語によって、うらはらの出来事になることを表している。そして、ここに、話し手や動作主のあてはずれの感情といったものを理解することができる。 (1)こんな不祥事が明るみに出れば折角許された女子の勉学の機会も閉ざされてしまうに違いない。(花埋み) (3)さわるとフニャフニャしていて張りのない胸は、一度カップのなかにきちんと収めてもすぐ横へ下へと移動して、せっかく作った胸の谷間が消えてしまいがち。(カルディエ1993.2) ィ捉えて、主体自体は消滅しないけれども、話し手や動作主がそれらに与えていたプラスの価値評価が消滅あるいは減退するといった関係を表している。これを「主体の無機能化のむすびつき」とする。例文(4)は、彼女が「男の子」に「特別に目をかけてやる」というプラスの価値評価づけが与えられている。この男の子が試合に勝てば、目をかけてやった甲斐があるというもので、当初の期待に応じた現実を手にすることができたはずである。しかし、「あっけなく敗退」したことによって、その男の子に与えていたプラスの価値評価は、当初の期待を実現するには至らず、彼女の、男の子にたいする付加価値はその機能を消滅ないしは減退することになる、といった捉え方ができる。そして、ここに、話し手や動作主のあてはずれの感情といったものを理解することができる。 (4)自分がせっかく特別に目をかけてやった男の子があっけなく敗退すると、彼女は素気なくぷんとして、その子のそばから躯をどけた。(楡家の人びと)(省略) 対象の消滅のむすびつきや対象の無機能化のむすびつきについても、上記の解釈が、並行的に当てはまる。例文(7)(8)ではヲ格の名詞(およびそれに相当する名詞)が表す物事(まとまった話)や事物(四百二十万円)が、「失う」「壊す」など、消滅するという変化を捉えている。例文(9)(10)ではヲ格の名詞(およびそれに相当する名詞)が表す物事(菜食の実行と宣伝)や事物(和服)について、「着る機会がない=着ない」「真似をしない」など、話し手や動作主(ビジテリアン諸氏)がそれらに与えたプラスの価値評価が消滅ないしは減退することを捉えている。いずれのばあいにも、話し手や動作主のあてはずれの感情といったものを理解することができる。 (7)私は、つまらないことに手を出して、せっかく貯めた四百二十万円を失なってもかまわないのかと、うんざりした気分で言いました。(錦繍) (8)八千ドルに比べればタダみたいなものじゃないですか、という言葉が喉元まで出かかったが、せっかくまとまった話を壊してしまう恐れがあったので、我慢した。(一瞬の夏) (10)ビジテリアン諸氏が折角菜食を実行し又宣伝するのを見た処で感服はしても容易に真似はしない。(銀河鉄道) このような連語論的な観点からの分析が、うらめの関係の理解に並行するばあいもあって、これがほとんどである。しかし、中にはうらめの関係にもまさめの関係にも理解できるもあった。なぜこのような両義的な解釈が成り立つのかといえば、連語論的な見方をするばあいと文構成論的な見方をするばあいとの、見方の違いによる。連語論的には消滅のむすびつきであっても、文の成分としてはかざられ動詞がその語彙的な意味で表されている出来事の実現を妨げるといった文法的な意味を持って文の述語として機能しているばあいがあるのである。 (11)心を急かされながら電話をしたため、相手に疑いをもたれ、せっかく得た貴重な手がかりを失ってはならない。(星のふる里) (11)と(12)は、「手がかりを 失う」「真鯛やメジを 放る」という連語論のレベルで解釈すれば、対象の消滅のむすびつきであって、うらめの関係を含んでいると理解できる。一方、文の成分のレベルで解釈すれば、「〔手がかりを〕〔失ってはならない=保持しなければならない〕」「〔真鯛やメジを〕〔放られたんじゃたまらない=持って帰りたい〕」のようなまさめの関係として理解できる。すなわちつぎのような構造として理解するのである。 ところで、つぎの例は(少数例ではあるが)、うらめ、まさめの関係で理解しようとすれば、その理由を説明することはかなりむずかしい。 (13)「それも未曾有の大乱じゃ。なにしろ、国境いを越えて諸方の敵が斎藤山城守さまを討つためになだれこんでくる。越前からは北国街道をつたって討ち入ってくるし、尾張からは木曾川を渡って乱入する、美濃は美濃で揖斐城主の揖斐五郎さまがこれらと呼応して軍勢を出す、いやもう、えらいさわぎになるぞ。せっかく美濃の国主になられた斎藤山城守さまは、これをどうなさるか」(国盗り物語) (13-1)斎藤山城守さまは、せっかく国主になられたのに、その威信を揺るがすようなさわぎが起きている。この事態にどう対処なさるのだろうか。 (13-2)斎藤山城守さまは、せっかく国主になられたのだから、その威信を示すべき好機である。この事態にどう対処なさるのだろうか。 「せっかく」がなければ、比較的単純な推量疑問の文である。そして、文の成分も「美濃の国主になられた」(規定語)、「斎藤山城守さまは」(主語)、「これを」(対象語)、「どうなさるか」(述語)のようにきれいに分解できる。しかし、「せっかく」が規定語にさしだされている出来事にたいする、話し手の評価的な態度を表すものとして使用されると、主語名詞「斎藤山城守さま」が、述語「どうなさるか」にたいしては主語として機能する一方で、規定語にたいしても、その述語「美濃の国主になられた」の主語として機能することになり、複文性が生じてくるのである。この用例では、いいおわり文の述語の語彙的な意味が疑問詞をともなう不定の内容であるた めに、連語論のレベルで、対象の消滅や無機能化といった積極的な結びつきを実現しない。そこに、両義的な解釈が生まれる要因があると考えられるのである。 うらめの関係を表す連用的なつきそい文に「せっかく」が使用されているばあい、「せっかく〜するのに/したのに」の形をとるものが一番多く、315例中100例あった。これらはほとんどすべて、確定した事実的な出来事をうらめ原因としてさしだしている。たいていは、動詞のシタ(例文14)、シテイル(例文15)の形をとって過去の事実や動きの継続、変化の結果の継続など現在においてレアルな出来事を表している。動詞のスルの形でも、現在における存在ないしは所有(例文16、17)や「子どもが生まれる」という確定的な未来の出来事(例文18)を捉えている。連体的なついきそい・あわせ文について観察したことが、ここでは、ふたつの出来事の関係が、つきそい文といいおわり文という、形式的に節の形をとっており、しかも、その関係づけが、つきそい文の述語を「するのに」の形に明示するというてつづきをとっている。 つきそい文でしめされた、話し手や動作主によって与えられたプラスの価値評価は、その当然の(と期待されるような)望ましい結果を実現することなく、いいおわり文にしめされた、うらはらの出来事として実現している。ここに、話し手や動作主のあてはずれの感情を理解することができる。 (15)あまりくどくどいうと、せっかく伸子の方がその気になっているのに、ぶちこわしかねない、と思い直して、(女社長に乾杯!) うらめの関係を表す連用的なつきそい文で、つぎに特徴的なのが、「せっかく〜しても」の形をとるものである。 「しても」の形をつきそい文の述語にとるものには、事実的なばあいと仮定的なばあいとがある(注5)。全部で25例採集した。この採集数は、予想外に少なかったという印象がある。しかし、言語学研究会・構文論グループ1986の説明に従えば、「するのに」は話し手の論理を通過した、いわば主観的なうらめ原因的な関係づけである。したがって、「せっかく」のもつ、話し手や動作主のあてはずれの感情にうまく合致している。これにたいして、「しても」は、どちらかといえば客観的な関係であって、ゆずり状況的な関係をも表すことができる。その点で、主観的要素を多分に持った「せっかく」との共起が少ないのではないかと考えられる。 全25例中、つきそい文がレアルな出来事を事実的にさしだしているものが17例(例文19から24)で、それにたいするいいおわり文の述語も16例がレアルな出来事を表し、1例が「うまくやってゆけるかどうか」という例(例文25)で、未来における可能性の有無を推量するものである。 つぎに、つきそい文の述語がポテンシャルな出来事を表していて、いいおわり文の述語も当然ポテンシャルな出来事を表している例である。これが8例ある(例文26から28)。 このように、「しても」の形をつきそい文の述語にとるばあいには、レアルな出来事であれ、ポテンシャルな出来事であれ、そこにさしだされている出来事を、話し手が価値ありと認めていることを「せっかく」がその語義において実現しているのである。「しても」の形には、いろんな用法があるが、「せっかく」を使用した文では、関係づけられるふたつの出来事がレアルなものとレアルなもの、ポテンシャルなものとポテンシャルなものといったくみあわせを基本としているのだろうと考えられる。非レアルな出来事を、「せっかく」を使用する「しても」の文で使用した例は、実例には見つからなかったが、可能性としては考えられる(「あの人のことだから、せっかく謝礼として渡しても、受け取らなかっただろう。」のような例が考えられる)。 (20)せっかく財をためても将軍は一つ覚えのように借銭帳消しの徳政令をふりまわし、ときには窮民が一揆を組んで市中を羅刹のように荒れくるい、われら油屋に対しては、上は大山崎八幡宮があり、その神権を笠にきて神人どもが暴威をふるう。(国盗り物語) (22)せっかくすてきな食器を持っていてもゴチャゴチャに入れているので、雑然とした感じがします。(レタスクラブ) (25)世の中はあまくあねえ、せっかくこうして店を持っても、うまくやってゆけるかどうかはわからねえからな、考えてみればおれだっておっかなくなるぜ」(さぶ) この節のおわりに、うらめの関係を表す連用的なつきそい・あわせ文を使用する心理や感情と人間関係について観察しておく。 これまで一律に、あてはずれの感情という用語で、話し手や動作主の心理や感情を説明してきた。しかし、この種の文をだれにたいして発話するのか、あるいは、つきそい文で表された出来事がだれにたいして影響を及ぼすのかといった観点から観察してみると、もう少し細かい心理や感情が読みとれる。そこには、相手にたいする配慮といった要因もある。当初、個人的な言語直観によって、自己中心的な価値評価づけの解釈を優先させていたのだが、修正しなければならない。採集した用例には、つぎに列挙するような、さまざまな表現(下線部)によって心理や感情が表されている(未整理で順不同)。 (29)もう何も思いつきません、精根つき果てました。山岡さんにせっかく骨折ってもらって申し訳ありませんが、下鴨流の茶事に菓子を出すのはあきらめるしかないようです……(美味しんぼ)(相手の骨折りを無機能化させたことにたいするおわび) (32)あーあ、せっかく見城さんと仲よくできたのに。ごめん。(週刊ビックコミックスピリッツ94)(話し手自身にとって落胆の感情があり、かつ、相手にたいしておわびする気持ちも表す) (36)せっかく、自分にだけ身上相談をしてくれたかと思ったのに、と太郎はちょっとがっかりした。(太郎物語)(話し手が自分で勝手に予想していたことがはずれたことにたいする落胆) (38)るすだと言って返してしまえ、と先生には言われていたが、せっかく、おきぬちゃんがたずねてきたのに、そのまま返してしまうのは、どうも惜しいような気がした。(路傍の石)(第三者の行為を無機能化することにたいする評価) (39)出発の時は、折角心静かに落着いた気分で立ちたいと思つたのに、一緒に尾張町まで行くことも出来ず残念でした。(山本五十六) (43)「時に、勝野君、生憎今日は生徒が集まらなくて困った。この様子では土屋君の送別会も出来そうも無い。折角準備したのにッて、出て来た生徒は張合の無いような顔してる」(破戒) (45)せっかく貯金をしておいたのに、それをみんな使われてしまったことも、しゃくにさわるし、中学へ行けないことも、くやしかった。(路傍の石) まさめの関係で理解できる連用的なつきそい・あわせ文の中でもっとも多いのが、つきそい文の述語を「するから」の形にするものである(151例中74例)。しかも、「〜のだから」の形になるものが圧倒的に多い(66例)。これにたいして、つきそい文の述語が「するので」の形になるのは、2例である。言語学研究会・構文論グループ1986でのべられているように、「するので」が対象の論理にしたがった原因を表し、「するから」は私の論理を通過した理由づけを表すといった対立的な特徴づけが、「せっかく」の使用における数量的なアンバランスとも符合しているといえるだろう。あるいは、一般的に言われているレベルでの、「ので」が客観的、「から」が主観的といった区別をも支えていると思われ ?る。前節でのべた、「するのに」と「しても」の使用例のアンバランスの要因とも符合する。「せっかく」は、話し手の主観的な把握態度を濃厚に持った副詞である。その主観性が、まさめの関係づけにあらわれるばあい、以下に例示するような、さまざまな理由説明として機能することになる。(それぞれの体系的な位置づけについては後の考察にゆずることにして、順不同で列挙する) (47)「愛川さんがせっかく持ってきて下すったんだから、みんなしてお相伴に預りましょうよ。捨坊、姉さんに分けておもらい。おっかさんも、キントンをいただきたいね。」(路傍の石)(愛川さんにたいする感謝の念を表し、自分も含めた全員の恩恵と捉えている) (49)あたしもね、折角、ここに来たんですから、今度の厄介な問題については、和同製薬さんに何かオミヤゲを持って帰らねばなりませんでな。(黒地の絵) (50)「せっかくおいでになったのでございます・hゥら、風情ありげにおもてなしをして、お帰り願われたらよろしゅうございましょう。いくら何でも追い帰すというのは失礼ですから……」(新源氏物語) (51)料亭の女将のなかには、客からすすめられても決して飲まない人がいるが、千加は一杯だけは必ず受けることにしている。とくにお酒が好きというわけではないが、せっかく注いでくれるのだから、一杯くらい受けるのは礼儀である。(風の噂) (52)たとえ発表会に行かなくても、せっかく誘ってもらったのですから、発表会の前日に「明日うかがえなくて残念だけど、頑張ってね」と電話をかけるか、小さな花の鉢植えを届けてはいかがでしょうか。(マフィン1994.5) (53)予算の組み方がマトを射ている男性はたくさんいます。せっかくよいお手本があるのですから、とりあえず彼らのアシストをしたりして、予算組みのノウハウを身につける訓練をするのもいいでしょう。(こんな女性がオフィスで魅力的!) (57)しかし、せっかくきたのだから、一ことでもソンキの家の人たちに見舞いをいおうと思い、なんとなくぐずぐずしていたが、だれもとりあってくれない。(二十四の瞳) (58)「(略)。せっかくそこに考えごとをしに入ったんだから、あなたがもっとその考えごとに集中できるようにしてあげましょうか」(ねじまき鳥クロニクル) この節のおわりに、まさめの関係を表す連用・DIなつきそい・あわせ文を使用する心理と人間関係について観察しておく。 小矢野1996で一部示した例であるが、ここでもう一度振り返っておきたい。「凡庸で自分の子に盲目的な愛しかそそげない教育ママ」が、少年院を脱走して家に帰ってきた息子の処遇について、話が展開している場面である。 (59)(60)は息子をめぐる夫婦の会話である。妻が夫にたいして、冷静さを失って、息子をかばうたちばで、自己中心的な言葉をはいている。「逃げてくる」「あんなところ」といった表現が、マイナス評価の事態であることを示している。一方、(61)は少年院の職員にたいして妻が言った文である。前日の興奮状態がさめたこともあるだろうが、夫にたいしては使用できた「逃げてくる」のようなマイナス評価語も、職員を相手にすると、使用できなくなる。相手に配慮した結果だろう。「せっかく〜するのに」といったうらめの関係を表すつきそい文を使用していない。息子を少年院に連れ戻されることを覚悟したうえで、「せっかく〜のだから」の形式を使用して、そこから期待される出来事(連れ戻すのを数日のばしてもらうこと)の実現可能性を求める表現をとっている。 成人であれば、かりに自分自身に十分に納得できないことがあっても、相手との利害関係において利益と思われる可能性があれば、自己の欲求を抑制し、相手のたちばに立って考えることができるだろう。 この例文において少年院の職員は、母親にとって絶対的あるいは相対的な優位者であり、欲求を抑制するといった判断をとるべき、あるいはとらざるをえない相手である。これにたいして、夫は、相対的な優位者ではあるが、自己中心的な状況把握を自己中心的に表明できる相手であり、甘えられる相手である。このような、話し手と聞き手との関係(社会的な関係、あるいはそれを反映した心理的な関係)の把握が、同じ「せっかく」を使用する際にも、まさめの関係とうらめの関係の表現の区別ないしは切り替えとして反映していると考えることができるだろう。 つぎの例文(62)は、形式的には、「するから」の形をとってはいないけれども、ふたつの出来事の間にまさめの関係としての把握が理解できる。花村は、中華街を探していた。中華街に来た目的を、中華料理を食べること、しかも有名な店で食べることに置いている。この目的を実現するためには、行列をして待つことは苦痛ではないといった認識を持っている。しかし、山岡と田畑は、すでに他の場所で行列して自分たちの順番を待ったことで、それ以上、ここでも待つことをいやがっている。それにもかかわらず、花村は、自分自身の目的実現への意欲を持続しており、喜んで行列するつもりである。その意欲は、有名な店で食べるべきだという評価的な判断を前提にしている。疲れている他者への配慮がなされてもよいはずの場面であるが、自己の評価的な判断(「有名な店で食べなきゃ意味ない」)を変更せず、自己中心的な欲求を貫こうとし、かつ、その判断と欲求を他者に、いわば押しつけている。 花村:せっかく中華街に来たんだもの、有名な店で食べなきゃ意味ないわよ。少しぐらい待つのは仕方ないじゃない。(美味しんぼ) (63)もまさめの関係づけだと理解できる。このばあいには、話し手である郡視学が、食事を誘っている議員たちの申し出を受け入れるために、「御厚意を無にするのは反って失礼」だという社会的な規範的行動にしたがう意向を示唆している。 校長の眼は得意と喜悦とで火のように輝いた。いかにも心中の感情を包みきれないという風で、胸を突出して見たり、肩を動って見たりして、やがて郡視学の方へ向いてこう尋ねた。 圧縮表現の特徴として、まずほとんどが会話文で使用されていることが指摘できる。会話文では、相手の発話が先行し、それに続く発話において圧縮表現が使用される。このばあい、「せっかく」によって評価される内容は、相手の発話内容にしめされているという文脈的条件があるために、話し手はその内容を重複してしめす必要がない。したがって、簡略表現としての圧縮表現が使用されるのである。 (64)友達の結婚披露宴の司会を頼まれまして。せっかくですから、ビシッと決めようと思って、タキシードをオーダーしたんです。(Big うらめの関係において、ていねい形を使用したものが半数強の13例あった。うらめの関係では、相手からの依頼や申し出 ?ノたいする断りの例がほとんどである。断るためにはいろんな配慮を相手にたいしてしめす必要がある。慇懃無礼なていねい形の使用(例文68、61)もあり、品格保持のための使用(例文66)もあった。きょうだいや恋愛関係にある二人、近所同士といった関係では非ていねい形が使用され、一通り相手に対する礼儀として「せっかく」と前置きはしているけれども、結局、勧誘や依頼や申し出などを断っている。また、権力を持っている者(例文69)や年輩の男性(例文70)の横柄な、あるいは依頼をはねつけるような態度を伴って使用されているものも、非ていねい形であった。 「せっかくですけど、私遠慮するわ」杏子はそっけなく断って、砕氷の中の飲み物を一口啜った。(別れの予感) せっかくですがご辞退致します。私たちはお互い伴侶となるべきふたりではございません。(週刊モーニング94・12)(30歳の女性から、プロポーズしてきた年輩の男性への断り) 以上のように、明確に断るばあいもあれば、以下のように、依頼された内容とは異なる選択をすることを意志の表現でしめしたり(例文71)、断りの理由をしめすものもある(例文72。上記の例文66も)。 ェあ、仕事いうたら仕事かもしれへんが、お前はんを東京につれて帰ろうと思ったから、札幌が商売になるかどうか見てくるなんて、口実をつけてきたんやで」 (72)「少しお酒でもいかがですか、あなたのお話をお聞きしたいという人が沢山いるのですよ、あなたは荻野の家の誇りですから」 ここまでは、うらめの関係、まさめの関係から、実例を通常のつきそい・あわせ文として観察してきた。しかし、実際の用例には、(a)つきそい・あわせ文がひとまとまりになって文の主題として機能しているばあいや、(b)つきそい・あわせ文がひとまとまりになって他のつきそい・あわせ文のつきそい文になっているばあいなどが・Hュなからずみられた。簡略化してしめすと、つぎのような例である。 このような文は現実にはたくさんあると考えられる。いわば「複々文」とでも名付けうるような構造をもっている。「せっかく」の使用との関わりにおいて、「せっかく」が何を評価対象としているのか、何を予想して「せっかく」と評価しているのかといった、「せっかく」の作用域に関わる問題である。 = 蓮沼1987は、本稿で観察した対象の全般にわたって、従うべき結論をさしだしている。そこに「話し手がもつ何らかの心理的な『前提』との関係にもとづく話し手の心的態度を表す」副詞であるとまとめている。この「何らかの心理的な『前提』」を、現実の出来事のありかたと、それにともなう心理や感情との関係をとらえて一般原則をさしだしている。その中で、「せっかく」の逆接用法が表す事態の関係をつぎのようにまとめている。 話し手がある事態のもつ潜在的価値を認め、その価値の実現を願望するにもかかわらず、それを妨害し あるいは無効にするような否定的事態の発生、存在により、その実現が不可能なことがわかり、これを惜 しみ、嘆く態度を表わす。(蓮沼1987、p.209 下線は引用者) (73)を例にして説明してみよう。「おきぬちゃんがたずねてきた」ことを話し手は価値のあることと評価している。例文(38)でしめしておいたように、「るすだと言って返してしまえ、と先生には言われていた」けれども、彼女がくれば、それ相応の応接をすべきだと考えている。つまり、「せっかくおきぬちゃんがたずねてきたのだから、当然それ相応の応接をすべきだ」といったまさめの関係の思考の過程が考えられる。話し手のこのようなまさめの関係づけは、しかし、先生からの「返してしまえ」という指示に従えば、「そのまま返してしまう」ことになる。話し手の価値評価からすると、このことは「どうも惜しいような気がする」のである。先生からの指示と話し手自身の価値評価的判断とを比較して、結局、指示に従わないという選択に傾くことになる。このような思考の過程を、原文は るすだと言って返してしまえ、と先生には言われていたが、せっかく、おきぬちゃんがたずねてきたのに、そのまま返してしまうのは、どうも惜しいような気がした。 と、まさめの関係づけにおけるいいおわり文に相当する部分「当然それ相応の応接をすべきだ」を省き、結果的にうらめの関係づけの部分を主題化して表現したものと考えられる。 例文(74)についても、同様に、「せっかくこうして逃げてきた(のだから、家で過ごさせたいし、そうさせるべきだと思うのが母親として当然の情である)のに、(逃亡は罪になるといった社会的な規範に従って)またあんなところに戻すのは、かわいそうだ」といったような、かなり複雑な心理・感情として理解されるだろう。 話し手が持っている希望を相手にも勧めるという場面において、あいてがそれをしぶっているようなばあいにはあり得る思考の展開だとは考えられるが、実例のなかに求めることはできなかった。しかし、「せっかく〜するから」の、まさめの関係の中に、うらめの関係が介入するといった展開をおこなうより、まさめのばあいは、何の介入もなく結果へと導く方が自然ではないだろうか。これにたいして、「せっかく〜のに」のばあいには、「せっかく〜するから〜する。しかし、それに反して、〜する」という思考の展開を考えるのが順当だろう。 われわれが評価的な判断を下すばあい、それが明示的であれ、非明示的であれ、いろんな規範に従っている。(a)のタイプのうらめの関係づけは、まさめの関係づけによる結論的な判断を前提としつつも、それを背後に隠して、うらめの部分のみを形式に表したものである。 、例文(75)がある。これは、まずまさめの関係づけを表面に表して、規範的な、あるいは評価的な判断を導いている。その判断を基準にして現実の出来事をみると、「わろうてむかえる」のとはうらはらの「みんながはでになく」という予想外の出来事であった、ということを、「なんじゃあ」という意外感を帯びた感動詞を先行させて表現している。まさめの関係で因果関係が構成されるという予想が、結局、うらめの関係に吸収されているとも言えよう。 「するにしても」のかたちをともなうつきそい・あわせ文の本領は想像から想像へと展開していく過程を表現することなのであろう。(p.67) 問題の例文は「するにしても」の形をとってはいない。しかし、(76)は、ポテンシャルな出来事を仮定的な状況として設定して、その第1の状況(企業から内定を決めてもらう)があっても、べつの第2の状況(保育園が決まるまで入社を待って欲しいと要望する)が条件としてはたらけば、第1の状況のもとで予想される結果(正式に採用される)が、うらめに出る(採用見送りを検討される)ことを推量している。このような結果が生じるのは、第1のつきそい文にしめされている不況の折の現実的な出来事が背景にある、ということが文全体の前提としてあることが明示されているからである。今問題にしている例文が、「しても」の形をとるつきそい・あわせ文の中でどれだけの比重を占めているのか、明確に把握していないが、「想像から想像へを展開していく過程」を表現しているとは言えるだろう。 ちなみに、この「せっかく」を、仮定的なつきそい文「しても」の中に共起しやすい「たとえ」に置き換えてみると、面白いことに、文全体の前提的な状況は、「するのに」ではなく「するから」の形の方が適合性が高いと思われる。 (76-1)この不況の折、ただでさえ子持ちの女性の就職は見通しが暗いのだから、たとえ企業から内定を決めてもらっても、保育園が決まるまで入社を待って欲しいなどと要望すれば、採用見送りを検討されてしまうだろう。 (76-2)?この不況の折、ただでさえ子持ちの女性の就職は見通しが暗いのだから、せっかく企業から内定を決めてもらっても、保育園が決まるまで入社を待って欲しいなどと要望すれば、採用見送りを検討されてしまうだろう。 (76-3)?この不況の折、ただでさえ子持ちの女性の就職は見通しが暗いのに、たとえ企業から内定を決めてもらっても、保育園が決まるまで入社を待って欲しいなどと要望すれば、採用見送りを検討されてしまうだろう。 例文(77)はふたつのレアルな出来事をうらめの関係でむすびつけている。第1のつきそい文(すてきな食器を持っている)でしめされている出来事から予想される結果は、食器棚の中に食器が整然と並べてあるさまである。しかし、この予想は、第2の原因的なつきそい文(ゴチャゴチャに入れている)が表す出来事のために、妨害されるのである。 以上、実例の即して、個別的な解釈を試みてきた。しかし、これらの解釈がどの程度まで一般化できるのかといった問題にはまだ答える用意ができていない。複々文のような構造の文の把握は、「たとえ」「万一」「かりに」のような仮定的な条件設定を明示するモダリティ副詞や「せっかく」「わざわざ」のような評価的な判断を明示するモダリティ副詞と共起するばあいとしないばあいとのかかわりにおいて行うのが望ましいと思う。今後の課題とする。 1)それではお前の分にも一丁買ってきてやるから、折角丹誠してくれやて、云ったら何んでも眼をうるましたようだった(野菊の墓) 2)海軍としては何はともあれ航空の躍進こそ急務中の急務なり折角御自重御努力のほど願上居候(山本五十六) |
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